屋上屋日和

けっきょくのところ、前に進むしかないのだ

精神疾患と個性のスペクトラム(のようなもの)

昨日の新年最初の診察では、年末で忙しさのピークは超えたこと、年末年始は実家やら旅行に出かけてたこと、最近ネット(ついった+ここ)してて寝るのが遅くなってることとか話してきました。主治医からは、いつも休日にあちこち出かけてるので躁状態なのではないかとずっと危惧している、と伝えられました。僕はついったのアカウント開設したりブログつくったりするほうがよっぽど躁なのではと思ってるのですが(いつもなぜか冬につくって春には放置してる。でも今度こそ続けたい)。


前に「双極性障害で結婚できますか?」と診察中にふと聞いてみたことがありました。「子供にも遺伝する可能性があると聞きました」と。そしたら、「君は躁鬱になって後悔してる?」と聞き返されました(正確には憶えてないけどそんな感じ)。軽躁のときに活動的になれたことで得たものもあったんじゃないの、それもすべて否定するの?というお話し。そういうふうにに見えるものの裏側には、それ以上のつらみや社会的信用の喪失(!)が積もり積もってきたんですが、そこを突かれるとううむと唸らざるをえない。これから先、世の中の平均的と言われる暮らしをして飲み会でウェイウェイ言って難しいこと考えないで暮らしたいなら、薬で気分の上下を思いっきり抑えて平均的で平坦な暮らしをしたらいいでしょう。しかしそういう生活はとても耐えられないです。だから今の自分にできる最善のことは、他人に迷惑や不快な思いをさせない程度かつ思考の自由さを奪われない程度に、治療を淡々と続けていくことなのではないか。
ちなみに冒頭の質問については、「まぁ、そもそも相手が見つかるかだよね」と言われたのがオチです。


こういうことを考えるたび、生きづらさの根っこにあるつらみと自分のもっている個性は、なんというか表裏一体にあるような気がするなぁと思うのです。一晩寝かせていろいろ削ったら以外と少なくなりましたがこんなところで。